📖世界観をつくる P5

経済学の基本原則と価値の源泉

経済学における最も基本的な原則の一つは、「希少なものに価値が生まれる」というものである。この原則は市場経済の根幹をなし、需要と供給のバランスによって価格が決定されるメカニズムの基盤となっている。かつての世界では「モノ」そのものが希少であった。食料、衣服、住居、そしてあらゆる物質的な財は、多くの人々にとって十分に行き渡らない状態が長く続いていた。

この物質的な希少性こそが、近代以降の経済発展を駆動する原動力となった。産業革命以前の技術史:労働置換への抵抗が技術進歩を形作ったことを考えると、技術革新の多くは物質的な豊かさを追求する過程で生まれてきたことがわかる。人々は「物質的に豊かになる」という共通の理想像を持ち、その実現に向けて懸命に働くことに意味を見出していたのである。

「豊かさの物語」の説得力

「一生懸命に働いて、みんなが豊かに暮らせる社会をつくる」という物語は、かつて十分な説得力を持っていた。この物語が機能した理由は、目標が明確で測定可能であり、努力と成果の因果関係が比較的わかりやすかったからである。人間がストーリー理解しかできないのはその認知特性や進化的適応に由来することを踏まえると、この「豊かさの物語」は人間の認知構造に適合した、極めて受け入れやすいナラティブであったといえる。

この時代においては、水道哲学のような考え方が経営の指針となり得た。松下幸之助が提唱したこの哲学は、水道の水のように良質な製品を安価に大量供給することで社会に貢献するというものであり、物質的希少性の時代には強い正当性を持っていた。企業は「モノ」を作り、届けることそのものが社会的使命であり、それが利益の源泉でもあったのである。

モノの過剰と物語の枯渇

しかし現代においては、この構図が完全に逆転している。先進国においては「モノ」は過剰になり、むしろ「物語」や「世界観」こそが枯渇している。店舗には商品が溢れ、オンラインでは無数の選択肢が並ぶ。コモディティ化が進行し、機能や品質だけでは差別化が困難になった現代において、消費者が本当に求めているのは単なる「モノ」ではなく、その背後にある意味や物語なのである。

価格と性能を超えてブランド価値が競争優位を決定する時代への移行は、この変化を如実に示している。製品のスペックや価格だけでなく、その製品が体現する世界観、それを所有することで自分がどのような存在になれるのかという「意味」が、購買決定において決定的な役割を果たすようになった。世界はそもそも虚構で成り立っているため、イメージが重要であり、人々は物質そのものではなく、物質に付与された象徴的価値を消費しているのである。

混迷の時代における世界観の重要性

物質的豊かさという共通目標を失った現代は、ある種の混迷の時代にあるといえる。何のために働くのか、何を目指して生きるのかという問いに対して、かつてのような明確な答えを社会は提供できなくなっている。現代社会における経済合理性の限界とその欠点が露呈し、経済的成功だけでは人々の心を満たすことができないことが明らかになってきた。

このような時代において求められるのは、人々が「自分もそのような社会の建設に加わりたい」と心から思えるような新しい物語と世界観である。コンセプトの存在が同じ内容でも強い影響力を持つことが示すように、同じ事業や活動であっても、それを包み込む物語の有無によって、人々の共感と参加意欲は大きく異なってくる。コンセプトは判断基準を提供し、一貫性を生み、価値の源泉となるのである。

リーダーシップと世界観の提示

このような文脈において、リーダーに求められる資質も変化している。優れたリーダーとは、効率的にモノを生産し届ける能力を持つ者ではなく、人々を惹きつける物語と世界観を提示できる者である。リーダーシップの効果的な発揮には3つの集中の形態が不可欠であるとされるが、現代においては特に「ビジョンへの集中」がその重要性を増している。

プロダクトビジョンは製品開発チームに対して明確な方向性を提供するが、それは単に製品の機能や仕様を定義するものではない。むしろ、その製品を通じて実現したい世界、その製品が存在することでどのような変化が生まれるのかという物語を語るものである。ブランドコンセプトの本質とその重要性もまた、この文脈で理解されるべきである。ブランドとは、単なる識別記号ではなく、特定の世界観を体現し、共有するための器なのである。

ビジネスと世界観の融合

現代のビジネスにおいて成功するためには、優れた製品やサービスを提供するだけでは不十分である。現代ビジネスの勝ち筋は、独自の世界観を構築し、それに共感する人々のコミュニティを形成することにある。ユーザー体験を中心に据えた強いビジネスをつくれるかどうかが企業の競争力に直結するのは、ユーザー体験そのものが世界観の表現であり、物語への参加体験だからである。

デザインとブランディングにおける意外性のある提案こそが価値創造の核心であるという視点は、この文脈で特に重要である。世界観とは、既存の常識や期待を超えた新しい視点の提示であり、それによって人々に「見たことのない世界」を垣間見せることができる。ブランディングは道の整備のようにブランドの価値と顧客関係を整えるプロセスであるが、その道が向かう先には、ブランドが提示する独自の世界観がなければならない。

物語を提示する力の獲得

では、どのようにして説得力のある物語と世界観を構築することができるのか。それは単なるマーケティングテクニックの問題ではない。虚構の意味と人生への影響を深く理解し、人間が本質的に物語的存在であることを認識することが出発点となる。ホモサピエンスが他のヒトより大きな集団を作れた理由とその影響を考えると、共有された物語こそが人類の協力と文明発展の基盤であったことがわかる。

コンセプトメイキングとは新たな意味を創造することである。それは既存の要素を新しい文脈に置き直し、これまで見えていなかった価値を顕在化させる作業である。アイデアとは既存の要素の新しい組み合わせであるが、世界観の構築もまた同様のプロセスを経る。既存の価値観、歴史、文化、技術を独自の視点で再構成し、新しい意味の体系を生み出すのである。

結論:希少性の移行がもたらす機会

物質的豊かさが達成された現代において、希少価値は「モノ」から「物語」と「世界観」へと移行している。この変化は、従来の経済的成功の方程式を根本から書き換えるものである。才能ある人材と資金を引き寄せ、社会の変革を推し進めていくことができるのは、人々の心を動かす物語を語り、参加したいと思わせる世界観を提示できる者である。

創造的な仕事に向き合い続けることで唯一無二の価値を生み出すことができるが、その創造性は今や「モノづくり」だけでなく「意味づくり」「物語づくり」にも向けられるべきである。AI時代において人間には高次の思考と判断力が不可欠となり、これらのスキルが競争力の源泉となる時代において、世界観を構想し、それを言語化・可視化する能力は、最も価値ある人間固有のスキルの一つとなるだろう。