2026-03-03

同じ絵本を何度も

夜、寝る前に絵本を読む。5歳の息子が同じ絵本を持ってくる。昨日も読んだ。一昨日も読んだ。もう何十回読んだかわからない。

ページをめくると「わあ!」と声を上げる。好きなページで手を止めて、じっと絵を見つめている。何が面白いのか、本人に聞いても答えは返ってこない。答える必要もないのだろう。そもそも理由がないのだから。

最初の頃、自分はこの時間に目的を持っていた。色の名前を覚えてほしい。動物の鳴き声を知ってほしい。物語の流れを感じてほしい。絵本を「学びの道具」として見ていた。良い絵本とは、何かを教えてくれる絵本のことだと思っていた。

でも息子にとって、絵本はたぶんそういうものではない。道具ではなく、ただそこにあるもの。心が動くから手に取る。それ以上の理由はない。

目的のない時間

子どもを眺めていると、気づくことがある。

おままごとをしている。ブロックを積んでは壊している。砂場で何かを掘っている。どれも、何かのためにやっているようには見えない。社会性を鍛えようとしているわけでも、空間認知を高めようとしているわけでもない。面白いからやっている。ただ、それだけだ。

大人はつい、そこに意味をつけたくなる。「遊びは子どもの仕事です」と言ったりする。発達に必要な行為だと位置づけて、遊びの時間を正当化しようとする。でもそれは大人が自分を納得させるための理屈であって、子どもの実感とは関係がない。

息子が絵本を持ってくるとき、そこにあるのは「心が動くかどうか」だけだ。理由も、目的も、教訓もない。ただ、わあ、がある。

子どもは絵本に目的なんて求めていない。主人公が何も解決しなくてもいい。教訓がなくてもいい。きれいな色があって、不思議な形があって、リズムのいい言葉があれば、それで絵本は絵本として成立している。

ある夜、そのことにはっきり気づいた。自分はいつから、何をするにも理由が必要になったのだろう。

「なんかいい」のゆくえ

本を読むのは知識を得るため。運動するのは健康のため。旅行するのはリフレッシュのため。いつの間にか、すべてが目的と結びついている。「ただ楽しい」で終わらせることに、居心地の悪ささえ感じる。

遊びにすら目的が持ち込まれる。ゲーミフィケーションは遊びの要素をビジネスに取り込む技法だし、レクリエーションは生産性を回復するための手段として扱われる。遊びの力を借りたいのに、目的を課した瞬間に、遊びの本質が抜け落ちてしまう。

子どもにはそれがない。目的というフィルターがないから、世界をそのまま受け取れる。「なんかいい」という感覚で動ける。

大人はどこかでその感覚を手放した。手放した、というより、目的という別の基準が上に被さって、見えなくなっているだけなのかもしれない。

正しいのに、何か足りない

デザインの仕事をしていて、似たことを感じる場面がある。

仕様書通りに作ったUIがある。アクセシビリティの基準を満たしている。コンポーネントの使い方も正しい。グリッドに乗っている。レビューで出た指摘はすべて潰した。なのに触ってみると、何か引っかかる。正しいのに、いいと思えない。

逆に、ルールを少し破っているのに気持ちいいプロダクトがある。余白がちょっと広すぎるし、色もブランドカラーから微妙にずれている。でもそのずれが、ちょうどいい。手が自然に動く。

この差はどこから来るのだろう。

正しさは測れる。チェックリストで確認できるし、数値で判定もできる。でも「いい」という感覚は測りにくい。触ったときの心地よさ、なんとなく使いたくなる感じ、ずっと開いていたくなる手触り。そういうものは数値に変換しようとした瞬間にこぼれ落ちる。

測れるものだけを追いかけていると、測れないものが静かに切り落とされていく。コンバージョン率は上がったけれど、プロダクトの空気感は変わってしまった。そういうことが、気づかないうちに起きている。

この「正しいけれど何か足りない」という感覚は、自分が絵本を「教育の道具」として見ていたときの感覚と、どこか似ている。正しい使い方をしているのに、大事なものに触れていない。

手を動かしてみる、という態度

AIと一緒にデザインをする機会が増えた。

AIは正しいものを作るのが得意だ。ガイドラインに沿ったUI、論理的に整合した構成。速くて、正確で、疲れない。でも出来上がったものに触れると、どこか平たい感じがすることがある。正しいのだけど、何も引っかからない。

正しいものは作れる。心が動くものは、まだ作れない。少なくとも今のところは。

ここで思い出すのが、息子の「わあ!」だ。あの反応には理由がない。分析を経由していない。何かが心に触れて、声が出る。ただそれだけの、でもとても確かな瞬間。

デザインにも、たぶんそういう瞬間が要る。何を作るか決める前に、手を動かしてみる。目的は後から考える。まだ形になっていない何かをスケッチしてみる。ふらりと展示に寄ってみる。散歩中に浮かんだことをメモする。どれも「何のため」を問わない時間で、だからこそ予想しなかったものが出てくる余白になる。

計画通りにものを作ることと、いいものに出会うことは、たぶん違うプロセスだ。計画は目的から始まる。出会いは、目的を手放したところで起きる。

絵本を開くように

子育ては、大人に「目的のない時間」を強制的に差し出す装置だと思うことがある。

息子は読み聞かせの途中で別のページを開く。同じフレーズを何度も繰り返させる。物語の展開を無視して絵だけを眺め続ける。大人が思い描いた段取りは通用しない。

最初はそれにイライラしていた。でもあるとき、その脱線の中にこそ、自分が仕事で忘れかけていたものがあると気づいた。目的に縛られない時間。正しさをいったん忘れて、目の前のものに心を開くこと。

「この本から何を学んでほしいか」ではなく、「この本を一緒に楽しめるか」。

デザインの仕事でも、同じ問いが立つのだと思う。「このUIで何を達成するか」の前に、「このUIに触れたとき、心が動くか」。目的の手前にある感覚を、まず掴みにいくこと。

方法論として説明できるほど、自分の中で固まってはいない。ただ、仕事をしながらときどき絵本のことを思い出す。今夜もたぶん、同じ絵本を読む。