2026-02-22

正しいけど、なんか違う

UIを作っていて、正しいけどなんか違う、という感覚がある。

アクセシビリティガイドラインを満たしている。コントラスト比もクリアした。コンポーネントの使い方も正しい。グリッドに乗っている。レビューで指摘されるポイントはすべて潰した。なのに、出来上がったものを触ると、これでいいんだっけ、という引っかかりが残る。

逆もある。ルールを一部破っているのに、触って気持ちいいプロダクト。余白が少し広すぎるし、ボタンの色がブランドカラーから微妙にずれている。でも、そのずれがちょうどいい。使っていて心地よく、自然と手が動く。

この差は何だろう。正しさの先に何があるのかを考えると、デザインそのものの話になる。AI時代に入って、この問いはさらに切実だ。

正しさは測れる。よさは測りにくい

正しさは便利だ。チェックリストで確認できる。合否を判定できる。WCAG 2.1のAA基準を満たしているか、タップ領域は44px以上あるか、ローディングは3秒以内か。数値で測り、基準と照合し、合格か不合格かを決められる。

よさは、そうはいかない。触って気持ちいい、なんとなく使いたくなる、ずっとこのアプリを開いてしまう。こういう感覚を数値に変換しようとすると、途端にこぼれ落ちるものが出てくる。NPSやDAU、リテンション率で間接的に捉えることはできる。でもよさそのものを直接測る尺度はない。

ここに落とし穴がある。測れるものは管理しやすいから、いつの間にか測れるものだけを追いかけるようになる。数値目標をクリアすることが目的化し、数値で捉えられない要素が削ぎ落とされていく。コンバージョン率は上がったけれどブランドの信頼感が毀損された、みたいな話は珍しくない。KPIが改善しているのにユーザーの満足度は下がっている。そういう矛盾に平気で陥る。

正しさを追いかけること自体は間違っていない。ただ、正しさだけを追いかけると、測れるものだけを見て測れないものを無視する構造が生まれる。プロダクトをいいものにしている要素は、たいていその測れないものの中にある。

ガイドライン通りが思考停止を誘う

正しさへの依存がもうひとつ厄介なのは、思考停止の免罪符になるところだ。

「ベストプラクティスに従いました」と言えば、それ以上の説明は求められにくい。「デザインシステムのコンポーネントをそのまま使いました」と言えば、判断を問われることは少ない。正しさは安全だ。間違いがないことを証明しやすいし、批判を受けにくい。

でもこの、それ以上考えなくていい、が曲者だ。ベストプラクティスは過去の正解の集積であって、目の前のユーザーの文脈にそのまま当てはまるとは限らない。デザインシステムのコンポーネントは汎用的に作られているから、特定の場面でのちょうどよさは保証しない。ルールを適用すること自体は正しい。でもルールの適用が最善かどうかは別の問いだ。

料理で考えるとわかりやすい。レシピ通りに作れば大きく失敗しない。でも「レシピ通りに作りました」と胸を張れるのは初心者の段階だ。料理が上手な人は、素材の状態を見て火加減を変え、気温や湿度で調味料の量を調整する。レシピを知った上で、目の前の状況に合わせて逸脱する。その逸脱の精度が旨さを決める。

デザインも同じだ。ガイドラインを知った上で、いつ従い、いつ外すかを判断する。その判断力がなければ、正しいけれど味気ないものが量産される。

正しさの先にあるもの

では正しさの先には何があるのか。

まず、文脈を読む力がある。同じUIでも、使われる状況が違えばいいの基準が変わる。急いでいるユーザーには簡潔さがよさになるし、じっくり選びたいユーザーには情報の豊富さがよさになる。時間帯、場所、気分、直前に何をしていたか。そうした文脈の集積が使い心地を形成する。

記念日のディナーに栄養補助食品を出されたら悲しい。栄養バランスは完璧かもしれないけれど、その場にふさわしくない。文脈に合っているかどうかは、正しいかどうかとは別の軸だ。

それから、身体的な感性。長年の経験で蓄積された、言語化しにくい判断基準だ。色の組み合わせがなんとなく気持ちいいとか、余白がなんとなく窮屈とか、アニメーションの速度がなんとなくもたつくとか。この「なんとなく」を言葉にできなくても感じ取れることが、正しさの先にある判断を支えている。

人間が言語化できる認知は全体の10%程度だと言われる。残り90%は身体知や暗黙知として経験の中に蓄えられている。正しさが機能するのは言語化できる10%の領域だ。いいものを作るには、残りの90%にアクセスしないといけない。熟練した料理人が計量スプーンなしで味を決められるように、経験を積んだデザイナーはピクセル値を追わなくても画面のバランスを感じ取れる。

あとは、理想の像を持っていること。こうあったらいいなという完成形のイメージが鮮明であるほど、正しさを超えたよさに手が届く。理想のない正しさは、目的地のない正確な地図だ。どこへも連れていってくれない。

AI時代に先鋭化する問題

正しさとよさの隙間は、AI時代にさらに広がる。

AIは正しいものを作るのが得意だ。ガイドラインに準拠したUI、文法的に正確な文章、論理的に整合した情報設計。パターンの再現は高速で正確で、100画面のワイヤーフレームを数時間で生成できる。どれもアクセシビリティ基準をクリアしている。

ただ、AIが生成したものにはのっぺり感がつきまとう。どこか既視感がある。悪くはないけれど、心を掴まない。正しさは担保されているのに、文脈と感性に基づく微調整が欠けている。

考えてみれば当然のことだ。AIはパターンマッチングで候補を生成する。過去のデータから正しそうな組み合わせを提案する。でも、目の前のユーザーの文脈、このプロダクトならではの空気感、ブランドが本当に伝えたいニュアンス。そういう一回限りの判断は、パターンの外側にある。

だからAI時代にこそ、正しさの先に踏み込める人の価値が増す。AIが正しいものを大量に作ってくれるからこそ、そこからの仕上げができる人が希少になる。

社内向けのプレゼン資料をAIに作らせたことがある。構成は論理的で、スライドの流れも破綻がない。見出しの粒度も揃っている。でも通して読むと、何も引っかからない。どのスライドも同じテンションで、同じ密度で、同じトーンで語りかけてくる。ずっと同じ音量で話し続ける人の話を聞いているような感覚だ。本当に伝えたいスライドの前に間を作り、あえて情報を減らしたページを挟み、色のトーンを一段落としてここから本題だと感じさせる。その緩急は、聞き手がどこで集中力を切らし、どこで前のめりになるかを想像できないと作れない。AIはスライド単体の正しさは担保する。でも全体を通した体験の設計までは手が届かない。

AIが出力したものをそのまま使うか、手を入れるか。その分岐点で問われるのが、正しさの先を見る目だ。

正しさは出発点であって、到達点ではない

正しさを軽んじろという話ではない。

基本原則を知っていてこその逸脱だ。ルールを知らずに破るのは無秩序であって創造ではない。グリッドを理解していない人がグリッドを外しても、単にずれているだけだ。正しさを身につけた上で、正しさの限界を知り、踏み越える。この順序が大事だ。

正しさは土台だ。土台がなければ家は建たない。でも土台だけでは家にならない。壁があり、窓があり、光の入り方があり、風の通り道がある。住みたい家にするには、構造計算の正しさの上に、暮らしへの想像力がいる。

ものづくりに関わる人なら、この感覚は身に覚えがあるはずだ。正しさをクリアした後に残る、あともう一歩の感覚。その一歩を踏み出せるかどうかが、正しいだけのものと、いいものとを分ける。

AIがどれだけ進化しても、このあともう一歩は人間の仕事として残り続ける。いいは文脈と感性の交差点にしか存在しない。パターンの再現では届かない場所だ。

正しさは出発点。到達点はその先にある。