絶対的な真理は存在しない。私たちが「真理」と呼んでいるものは、ある時点のある集団が暫定的に合意した見解に過ぎない。これはニヒリズムではない。むしろ、知識や信念の成り立ちを正確に捉えた上で、それでも行動を選ぶための足場になる認識である。
科学は「真理への到達」ではなく「合意の更新プロセス」である
科学は真理を発見する営みだと思われがちだが、実際にはそうではない。科学的証明と真偽の認識が示すように、科学的証明には役割と限界がある。科学が提供するのは「現時点で最も反証されていない仮説」であり、それは常に覆される可能性を内包している。
たとえば地動説は、天動説というかつてのコンセンサスを覆した新しいコンセンサスだった。進化論もそうだし、ニュートン力学から相対性理論への移行もそうである。トマス・クーンが指摘したように、科学の歴史はパラダイムの転換の歴史であり、累積的な真理への接近の歴史ではない。新しいパラダイムが古いパラダイムを置き換えるとき、変わるのは「事実」ではなく「何を事実として認めるかの合意」である。
科学が他の知識体系と異なるのは、反証可能性という自己修正の仕組みを持っている点にある。ポパーが示したこの特徴は、科学を「真理に近い」ものにしているのではなく、「合意を更新し続けることができる」ものにしている。科学の強さは正しさではなく、間違いを認めて修正する手続きの堅牢さにある。
民主主義は真理の不在を前提とした制度設計である
民主主義は数の力学に基づいて支持される一方で、その最適性は不確実である。この不確実さは民主主義の欠陥ではなく、本質的な特徴である。
もし何が正しいかについて客観的な答えがあるなら、多数決という手続きは不要になる。正解を知っている専門家に任せればよい。多数決が採用されるのは、何が「正しい」かについてそもそも唯一の答えが存在しないからである。民主主義は真理の存在を前提としていない。代わりに、「何を正しいとするかを決めるプロセス」について合意することで社会を運営している。
社会契約論の枠組みで考えれば、人々が国家に従うのは国家が真理を体現しているからではなく、そのルールに従うことに合意したからである。合意の内容は時代や文化によって変わる。全ての対立する構造の根本には個人と社会という二つの視点のせめぎ合いがあるという構図は、まさにこの合意形成の困難さを映し出している。
知識はコンセンサスの堆積物である
私たちが「知っている」と思っていることの大半は、自分で検証したものではない。教科書に書いてあること、専門家が言っていること、周囲の人が前提としていること。これらは全て、ある共同体が「これは信頼に値する」と合意した命題の集積である。
情報から知識への変換プロセスを考えてみると、情報が知識になる過程には必ず解釈と文脈化が入る。そしてその解釈の妥当性を判断するのは、最終的には共同体の合意である。学術論文が査読を経て認められるのも、理論が教科書に載るのも、その知識が「正しいから」ではなく「共同体が正しいと認めたから」である。
コレクティブラーニングの仕組みを見ればこれは明らかで、人類の知識は個人の発見の総和ではなく、集団が何を残し何を捨てるかの選択を繰り返した結果である。残ったものが「真理」と呼ばれているに過ぎない。
「正しさ」の複数性
真理がコンセンサスだとすれば、異なる共同体が異なる「正しさ」を持つことは当然の帰結である。倫理観ひとつとっても、時代と文化によって内容がまるで異なる。かつて当然視されていた制度や慣行が、今では不正義と見なされることは珍しくない。逆もまた然りで、今の私たちが「当たり前」と思っている価値観も、数十年後には疑問視されているかもしれない。
これは勝利条件は人それぞれの価値観に基づくという個人レベルの話とも通じる。何が良い人生かについて唯一の正解はなく、各人が自分の文脈で暫定的な答えを持っているだけである。
ただし、複数の「正しさ」があるという認識は、「何でもあり」を意味しない。リアリズムは民主主義の否定に使われるべきではないのと同様に、コンセンサスの相対性は「全ての合意が等価だ」という結論には導かない。合意の質には差がある。より多くの人が参加し、より多くの反証に耐え、より長い時間をかけて鍛え上げられたコンセンサスは、そうでないものよりも頑健である。
実践への接続
真理がコンセンサスであるという認識は、行動を止める理由にはならない。むしろ行動の仕方を変える。
絶対的な正しさを求めて動けなくなるより、暫定的な合意のもとで行動し、結果を観察して合意を更新し続ける方が実効的である。これは科学の方法論そのものであり、Cynefinフレームワークが示す複雑系への対処法とも重なる。複雑な状況では、分析して正解を導くのではなく、試して観察してから方針を修正する。正解が先にあるのではなく、行動の結果として事後的に「正解だった」と合意されるものがあるだけだ。
好奇心と哲学を通じた真理の発見と文化的進化が述べるように、人類は好奇心を起点に探究を続けてきた。その探究が到達するのは真理ではなくコンセンサスだが、探究そのものの価値は揺るがない。むしろ、到達点が暫定的だからこそ、探究は終わらない。永遠に更新し続けられるという点にこそ、知的営みの面白さがある。
群知能の観点から見れば、合意形成は単なる妥協ではなく、多数の視点を統合することで個人では到達しえない判断に至るプロセスでもある。コンセンサスが真理の代替物であることは、必ずしも劣化を意味しない。むしろ、一人の天才が見出す「真理」よりも、多くの人間の試行錯誤から鍛えられた合意の方が、結果的に頑健であることは多い。