2026-02-06

「誰が言ったか」が再び支配する世界

現代の情報環境は、一見すると技術の最先端にあるように見える。しかしその本質を見つめると、情報の真偽を判断する構造は江戸時代や戦前の日本に驚くほど似ている。あの時代、人々は「何が正しいか」よりも「誰が言っているか」を頼りに情報を受け取っていた。町の有力者の言葉は信じられ、見知らぬ旅人の話は話半分に聞かれた。噂話は広まるが、その真偽を体系的に検証する仕組みはほとんど存在しなかった。

現代のSNS空間で起きていることは、まさにこの構造の再来である。Twitterやインスタグラムで情報を受け取るとき、人々はまず「誰が発信しているか」を確認する。フォロワー数、肩書き、過去の発言の一貫性――これらが情報の信頼性を測る物差しになっている。情報と知識の違いが示すように、情報そのものには文脈も解釈も含まれていない。だからこそ、発信者の信頼性が情報の価値を左右する構造は、情報の本質からすれば自然なことでもある。

近代マスメディアという「異常な時代」

この視点から振り返ると、20世紀の新聞・テレビを中心としたマスメディアの時代は、人類史の中ではむしろ例外的な期間だったと言える。マスメディアは「客観報道」「裏取り」「編集権の独立」といった制度を確立し、情報の真偽を検証するゲートキーパーとしての機能を担っていた。読者や視聴者は、個々の記者が誰であるかよりも、「〇〇新聞が報じた」「NHKが伝えた」というメディアブランドを信頼の根拠にした。

この構造が成立するには、いくつかの前提条件があった。情報の発信手段が限られていること、メディア組織が一定の倫理基準を共有していること、そして受け手がメディアの権威を受容していることである。デジタル技術の進展が人間と社会に与える影響:歴史的観点からで論じられているように、グーテンベルクの活版印刷からマスメディアの確立に至るまでの数百年は、情報伝達の「制度化」が進んだ時代であった。情報の真偽を個人の判断に委ねるのではなく、制度として検証する仕組みが構築された、人類史のなかでも特異な期間だったのである。

インターネットが壊したもの

インターネット、特にソーシャルメディアの普及は、このゲートキーパー構造を根本から崩した。インターネット革命とAI時代の情報アクセスと個人のアウトプットが指摘するように、誰もが情報の発信者になれる時代が到来した。これ自体は情報の民主化として歓迎されたが、同時に情報の真偽を検証する制度的な仕組みの崩壊も意味していた。

結果として、人々は情報の信頼性を判断するために、前近代と同じ方法に回帰せざるを得なくなった。すなわち、「誰が言っているか」「その人は信頼できるか」「自分の知り合いも同じことを言っているか」という、人的ネットワークと評判に基づく判断である。信頼できる他者との対話を通じて初めて、人は真の自己を認識するという洞察が示すように、人間は本来、信頼できる他者との関係性のなかで世界を理解する存在である。マスメディアの時代がむしろ、この本能的な情報処理を一時的に覆い隠していたに過ぎない。

エコーチェンバーは「村」の復活である

現代社会は身体、経済、精神、情報の全てにおいて肥満化が進行しており、持続可能性を脅かしているで分析されているエコーチェンバー効果は、この文脈で見ると、前近代の「村」の情報構造とほぼ同型である。江戸時代の村では、村の中で共有される情報が「真実」であり、外部の情報は懐疑的に扱われた。現代のSNSにおけるアルゴリズムによるパーソナライゼーションは、デジタル上に無数の「村」を作り出している。

界隈消費は、SNSを起点としたコミュニティにおける新しい消費行動であるが示すように、現代人はSNS上の「界隈」というコミュニティに所属し、そこでの情報と価値観を共有している。これは江戸時代の藩や町内の情報圏と構造的に極めて似通っている。違いがあるとすれば、デジタル上の「村」は地理的制約を受けないため、より純粋に趣味嗜好や思想信条で分断される傾向がある点である。

前近代との決定的な違い:情報量と伝播速度

ただし、現代の情報環境が前近代と完全に同一かといえば、そうではない。決定的に異なるのは情報の量と伝播速度である。江戸時代の噂は口伝えで広まり、その速度には物理的な限界があった。現代のフェイクニュースはミリ秒単位で世界中に拡散する。極端な発言の背景とその問題点で分析されるような過激な言説も、前近代であれば地域コミュニティの中で自浄作用が働く可能性があったが、デジタル空間ではそのまま増幅される。

社会との過度な接続が個人の感情に及ぼす影響が指摘するように、常時接続の環境は人間の認知能力を超えた情報負荷をもたらしている。前近代の人間は限られた情報源からの少量の情報を、時間をかけて「誰が言ったか」で判断すればよかった。現代人は膨大な情報の奔流の中で、同じ判断を瞬時に求められている。同じ構造でありながら、求められる処理速度が桁違いに上がっているのである。

AI生成情報がもたらすさらなる混迷

この回帰をさらに複雑にしているのが、AI生成コンテンツの台頭である。AI生成コンテンツの違和感は情報量管理の失敗から生じ、人間の理解とニュアンス感知が質の向上に不可欠であるが論じるように、AIが生成する情報は人間が書いたものと見分けがつかなくなりつつある。これは「誰が言ったか」で判断する前近代的な方法すら機能不全に陥らせる可能性がある。

前近代では、少なくとも情報の発信者は生身の人間であり、その人物の評判や社会的地位を手がかりにできた。AI生成情報はこの前提すら崩す。発信者が人間なのかAIなのかわからない状況は、前近代よりもさらに不確実な状態であり、人類がかつて経験したことのない情報環境と言える。科学的証明と真偽の認識で論じられている「科学的に証明できないことを一概に否定するのではなく、論理と直感の両方を用いて事象を理解する」という姿勢が、まさに今求められている。

歴史的循環から学ぶべきこと

この「一周回った」状況から引き出せる教訓がある。情報の真偽を制度的に保証する仕組み(ジャーナリズム、アカデミズム、専門家の権威)は、人類史の中では例外的に機能していた時期があった。それが崩れた今、前近代の人々が持っていた情報リテラシー――すなわち、情報源を吟味し、複数の人間に確認を取り、時間をかけて判断する能力――を、デジタル時代にアップデートした形で再構築する必要がある。

情報から知識への変換プロセスが示すように、情報を知識に変換するには批判的思考と体系化が不可欠である。前近代の人々は経験と人的ネットワークでこれを行っていた。現代人はそれに加えて、デジタルリテラシーとAIリテラシーを装備する必要がある。「誰が言ったか」だけでなく、「どのような動機で」「どのような文脈で」「どのようなプロセスで作られた情報か」まで問う複眼的な判断力が、この回帰した世界を生き抜く鍵となる。

AIの進展により既存の社会経済契約は根本的な再構築を必要としているように、情報の真偽に関する社会的契約もまた、根本的な再構築が必要な時期に来ている。