出発点としての「俯瞰仮説」
映画や小説に触れるとクリエイティブになる、という実感はよくある。説明としてまず思いつくのは、自分とは違う世界や価値観を追体験することで、自分の状況を相対化できるからだ、というものだ。今いる場所しか知らなければ、その場所のルールが世界そのものだと錯覚する。物語に触れて別の場所を覗いてくると、戻ってきたとき自分の場所が「ひとつの場所」として見える。距離ができる。距離ができれば、その場所のルールを変えるという発想も生まれる。
この説明は半分は当たっている。だが半分しか説明できていない。物語に触れた後に起きていることは、頭を高く上げて自分の状況を地図のように見下ろす、というような分析的な操作だけではない。もっと体感的なことが同時に起きている。
物語が起こす本当のこと
映画や小説の中では、自分なら絶対に選ばない選択をする人物が出てくる。家族を捨てる人、復讐を選ぶ人、嘘をつき続ける人、何もしないことを貫く人。読み手は彼らの理屈に一瞬巻き込まれる。「自分ならそうしない」と思いながら、同時に「この人がこの選択をするのは分かる」と感じてしまう。その人の身体に一瞬入って、その人の論理で世界を見てしまう瞬間がある。
これは情報を取り込むのとは違う。「家族を捨てる人もいる」という事実を知るだけなら、新聞記事でも社会学の論文でも足りる。物語で起きているのは、その人物の理屈に一度自分が共感してしまう、という体験だ。共感した後の自分は、共感する前の自分と少しだけ違う。共感した分の何かが残る。
人間がストーリー理解しかできないのはその認知特性や進化的適応に由来する で語られているように、人間の認知はそもそも物語を経由して世界を理解するように出来ている。事実の列挙ではなく、誰かが何かをして何が起きたかという形でしか、世界の動きを掴めない。物語を読むことは、知識を入れる行為であると同時に、認知の素材そのものを増やす行為になる。
自分の中に登場人物が増える
物語を経由すると、自分の中に登場人物が一人増える感じがする。比喩ではなく、機能としてそうだ。次に何かを判断するとき、「自分」だけが判断するのではなく、「あの登場人物ならこう見るだろう」という別の視点が同居するようになる。
これは俯瞰とは別物だ。俯瞰は地図を上から見るような単一視点の高度な版でしかない。物語が増やすのは視点の高さではなく、視点の数だ。自分の中に他人が住む状態は、ひとつの状況に対して複数の解釈を同時に走らせられる状態でもある。
クリエイティビティとは「他人の目」の数の関数
クリエイティブな出力とは、ありえる解釈・組み合わせ・提示の中から、まだ誰もが思いついていないものを引き当てることだ。引き当てる確率は、自分の中にある「目」の数に比例する。同じ状況を10通りに見られる人と1通りでしか見られない人では、出てくる選択肢の数が桁で違う。
ここで重要なのは、その「目」が単なる知識ではないという点だ。知識は「こういう選択肢もある」と外側から知っている状態を作る。「目」は「こういう状況なら自分はこう感じる」と内側から発動する。前者はリストの参照、後者はその場での反応。クリエイティブな仕事で必要なのは後者だ。リストを長くしても、その場で動く反応を持っていなければ、選択肢は手に取れない。
物語を読むことが効くのは、知識ではなく反応そのものを増やすからだ。映画を1本見終わった直後、しばらく主人公の物腰や口調が自分に残ることがある。あれは表層的な真似ではなく、その人物の感じ方の型が一時的に自分にコピーされている状態だ。コピーは時間とともに薄れるが、薄れる前にコピーされた経験そのものは残る。何度も繰り返せば、複数の感じ方の型を自分の中で切り替えられるようになる。
なぜ「俯瞰」だけでは足りないか
俯瞰仮説の弱点は、観察者の目線で説明を完結させてしまうところにある。俯瞰は冷静さを生むが、新しい選択肢を生まない。地図を眺めるだけでは、新しい道は引けない。
新しい道を引くには、地図の中に立った経験が要る。誰かの靴を履いて、その人の身体感覚で道を歩いてみた経験が要る。そうやって初めて「この道はこの人にとってこう見える」が分かり、自分が引く道にもその視点を織り込める。俯瞰は事後の整理には役立つが、発想の源泉は別のところにある。
エモの言語化 のような感情を言葉にする作業も、結局は自分の中にどれだけ多様な感情の型が住んでいるかに依存する。型が少なければ、言葉にできる範囲も狭い。物語は感情の型を増やす最も効率の良い装置だ。
含意:どんな物語が効くのか
ここから素朴な話だが、物語の効果は「自分なら絶対に選ばない側」に立たされる強度に比例しそうだ。共感しやすい主人公の話だけ読んでいると、自分の中に増える登場人物が「自分の延長線上の人」ばかりになる。それは「目」を増やしているようでいて、実は1つの目の解像度を上げているにすぎない。
増やすべきは、自分とは前提が違う人物の側に一瞬立たされる体験だ。読みながら不快になる、納得できない、それでも理屈は分かる、という瞬間が来る本や映画ほど、終わった後に自分の中に残る他人の量が多い。
自分を変えずに環境ばかり変えていると自分を変える能力を失って絶滅する という話とも繋がる。同じ視点しか持たないということは、自分を変える素材を持っていないということだ。物語によって他人の目を増やすことは、自分を内側から変える素材を増やすことでもある。
経験を増やすのと何が違うか
「だったら実生活でいろんな経験をすればいい」という反論はありえる。だが実生活で経験できる範囲は、現実の制約上、自分が選びうる選択肢の中に閉じる。家族を捨てる経験も、復讐を選ぶ経験も、犯罪者の側に立つ経験も、自分の生活の中では基本的に起きない。物語の優位は、自分の人生では絶対に踏まないルートを、感情の側面まで含めて疑似的に踏めることにある。
しかも物語の中の選択は、現実の選択と違ってリスクがゼロだ。ノーリスクで他人の身体に入れる装置は、人類が発明した中でかなり特殊なものだ。クリエイティブな仕事をする人が映画や小説に時間を使うのは、贅沢でも教養でもなく、機能的な投資として合理的だということになる。
まとめ
映画や小説に触れるとクリエイティブになる理由は、俯瞰視点で自分を相対化できるからだけではない。それより根本的に、自分とは違う他人の側に一瞬立たされる体験を通して、自分の中に登場人物が増えるからだ。クリエイティブな出力は、自分の中にある「他人の目」の数の関数として現れる。だから物語に触れることは、知識のインプットではなく、反応の型のインストールに近い。