2026-03-15

きれいにすると、考えられなくなる

提案資料を作っていて、ある段階でフォントと余白を整え始めた。見た目がそれなりになった瞬間、ロジックの穴を探す目が鈍った。スライドを順番に見ていくと「いい感じだな」と思えてしまう。でも翌日テキストだけ抜き出して読み返すと、3枚目と5枚目の間で論理が飛んでいた。昨日は気づかなかった。

ワイヤーフレームでも同じことが起きる。グレースケールで画面を並べている段階では「この遷移、いらなくないか?」と冷静に見られるのに、色を載せてタイポグラフィを調整した途端に、同じ画面が「もうこれでいい」に変わる。何も解決していないのに、解決した気になる。

これは自分の集中力の問題だと長いこと思っていた。でもどうやらそうではないらしい。

人間のワーキングメモリには上限がある。デザインが入った状態で画面を見ると、配色やレイアウトの印象を処理するのと、論理の流れを追うのとで、同じ認知リソースを食い合う。aesthetic-usability effectという現象もあって、見た目が整っているものを人は「ちゃんとしている」と感じやすい。さらに、時間をかけてデザインした後だと、壊すのが惜しくなる。

要するに、きれいにすると考えられなくなるのは、仕組みの話だ。

だから「中身を先に固めろ、デザインは後だ」という話になる。テキストでアウトラインを組んで、論理を詰めて、そこからビジュアルに移る。この順番は正しい。少なくとも、論理の精度がアウトプットの質を決める仕事においては。

正しいのに、何も感じない

ただ、この処方箋をどんな仕事にも当てはめていた時期がある。UIの設計でも、まず要件をテキストで定義して、画面遷移をロジックで組んで、それからFigmaを開く。手戻りは減った。論理的な破綻もなくなった。でも、出来上がったものを触ってみると、何も感じない。不快ではない。使いにくくもない。ただ、何も感じない。

この「何も感じない」をどう扱えばいいのか、しばらくわからなかった。ロジカルに正しいのだから、これ以上何をすればいいのか。

あるとき、自分が好きなプロダクトをいくつか並べて考えた。好きな理由を言語化しようとしたが、うまくいかない。「操作していて気持ちいい」「なんか好き」としか言えない。その「なんか」の部分は、自分がロジックで先に固めた工程では一切扱っていなかった。

ロジックから入ると、思考の射程が言語化できる範囲に限定される。人間が言語化できるのは認知活動の10%程度だと言われていて、ロジックから入るということは、残りの90%を最初から手放しているということだ。正しいけど何も感じないプロダクトは、この10%だけで作られたものなのだと思う。

手が先に動く仕事がある

では残りの90%にどうアクセスするのか。考えてもわからなかったが、振り返ると、自分が「いいものを作れた」と感じたときは、だいたい手が先に動いていた。

とりあえずスケッチを描く。ムードボードを並べる。何パターンか作ってみて、「こっちの感じ」「こっちじゃない」と選り分ける。言語化する前に手を動かして、アウトプットが先にあって、「なぜこれがいいのか」は後から考える。

これはさっきの「中身を先に固めろ」と矛盾する。矛盾するが、両方正しい。

使い分けの基準は、問いの性質にある。問いの構造が見えている仕事、つまり「何を、誰に、どんな目的で」がはっきりしている仕事はロジックから入るべきだ。業務報告、提案書、ユーザビリティの改善。ここでは認知の罠を避けるために、ビジュアルは後回しにした方がいい。

一方、問いの構造自体がまだ見えていない仕事は、手を動かさないと始まらない。ブランドの世界観を探る、新しいコンセプトを立てる、人の感情に触れるコミュニケーションを設計する。こうした仕事でロジックから入ると、言語化できた範囲内に発想が閉じ込められる。

クリエイティブディレクションの場で「まずコンセプトを言語化しよう」と始めて、付箋を貼って構造を整理して、それをデザイナーに渡す。出来上がったものは論理的に正しい。でも心は動かない。論理の枠内に収まっていて、そこから飛び出す余地を、自分たちで潰してしまっている。こういう経験は何度もある。

「なんか違う」と言えることの価値

自分がデザイナーだから言っているだけかもしれないが、デザイナーの一番の価値は「なんか違う」と言えることだと思っている。

画面を見た瞬間に「ここが引っかかる」と感じる。論理的に説明できなくても、その違和感を手がかりにピクセル単位で調整して、「これだ」という状態を探り当てる。この感覚は、正解が一つに定まらない問題に何年も向き合い続けることで育つ。いろんなプロダクトを触ってきた経験、自分で作って失敗した経験、ユーザーの顔を見た経験が、言語化できない判断基準として圧縮されている。

KPIが全部グリーンなのに、触っていて物足りないプロダクトがある。数値には表れない「何か」が足りない。その「何か」に気づいて、「ここが違う」と言えるのは、ロジカルな分析ではなく、訓練された直感だ。

AIはロジカルな設計を代替できる。デザインシステムに従ったUI生成、アクセシビリティのチェック、レイアウトのパターン提案。AIが得意なのは「わかりやすさの設計」だ。パターンを大量に生成して並べることはできる。でも、その中から「これが気持ちいい」を選ぶのは、今のところ人間にしかできない。

だから、チームにデザイナーがいる

UIデザインはロジカルに見える仕事だ。情報設計も画面遷移もコンポーネント設計も、ルールに基づいて組み立てられる。エンジニアやPMでもできるし、AIに任せてもそれなりのものが出る。だから「デザイナーなしでもいける」と感じやすいし、実際、ロジカルに正しいものを作るだけなら、いなくても回る。

でも、デジタルプロダクトは毎日触るものだ。毎日触るものに「好き」が生まれるかどうかは、ロジックの外側で決まる。導線の最適化や使いにくさの修正はロジックで対処できる。だが、そのプロダクトを「使いたくなる存在」にするのは、別の仕事だ。

デザイナーがチームにいる意味は、「この機能、触って楽しい?」という問いを持ち込めることにある。ロジックの枠の外にある問いだ。この問いを立てる人間がいないチームは、正しいものは作れるが、好きになってもらえるものは作れない。

自分がデザイナーだからこう言っている面はあると思う。でも、ロジックだけで作られたプロダクトを毎日触る生活を想像してみてほしい。不快ではない。困りもしない。ただ、別のものに乗り換えるとき、何の未練もない。その未練のなさが、プロダクトにとって一番怖いことではないか。