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戦後モデルの終焉と主体的選択の必要性

現代日本は、戦後から続いてきた「比較で従う」姿勢から「自ら選び取る」姿勢への転換を迫られている。米国を含む世界全体が近代システムの前提を問い直す局面に入り、制度設計以前に根本的な人間観、死生観、共同体観の再定義が求められている。これは単なる政策調整ではなく、文明論的な転換点である。

専門性の過剰適用によって硬直化した戦後の産業構造も、この文明的転換の中で根本的な見直しを必要としている。経済合理性の限界が露呈する中、新たな価値基準と社会設計原理の構築が急務となっている。

情報革命がもたらす極端主義への警鐘

明治維新期もまた、現代と同様の情報爆発の時代であった。福澤諭吉は、センセーショナルな報道と大義の短絡化が西南戦争の熱狂を煽った歴史を目撃し、文明の「器」だけでなく「精神」を養う必要性を説いた。技術革新がもたらす情報の氾濫は、解像度の低い意見を増幅させ、極端な世論形成を促進する。

インターネット革命以降の現代においても、この構造は本質的に変わっていない。むしろ、パーソナライズされたアルゴリズムによって、陰謀論の台頭や分断が加速している。福澤が示した「極端に振れる世論への距離の取り方」は、現代のメディアリテラシーの原型として再評価されるべきである。

破壊的な孤独と自己啓発の病理

パーソナライズされた情報摂取は、家族や職場においても心的分断を生み出している。過度な接続によるパラドックスとして、つながりの増加が逆に孤独を深めるという現象が起きている。この空白を埋めるための「速効性の自己啓発」は、短期の昂揚と長期の空虚さを往復させる依存的なサイクルを形成する。

承認欲求に駆動される評価経済から距離を取り、厚みのある言葉(歴史・宗教・詩・古典)に触れる習慣化が必要である。歴史を学ぶことは、短期的な成功体験の追求から脱却し、より深い時間軸での思考を可能にする。密教的な知恵唯識思想のような東洋の伝統的な知恵体系も、現代の精神的空虚への処方箋となりうる。

本居宣長:「もののあはれ」という設計原理

本居宣長が提唱した「もののあはれ」は、人間関係を対立・取引ではなく、肯定と共感の倫理で捉え直す枠組みである。この日本的感受性の核は、悲・寂・愛を含む「響き合い」を重視し、ホールネスの概念とも共鳴する。

現代のデザインUXデザインに移せば、摩擦をゼロにするのではなく、丁寧に扱い意味づける設計思想となる。コミュニケーションデザインにおいても、効率性だけでなく、人間の感情や関係性の機微を大切にする姿勢が求められる。これはAIと人間の協働においても、人間性を保持する重要な視点となる。

西郷隆盛:死生観と覚悟の再構築

西郷隆盛が体現した死生観は、死を遠ざけた近代以降の「無時間化」に対する強力なアンチテーゼである。現代社会の多面的肥満化は、死や限界から目を背けた結果でもある。西郷は生の厚みと共同体の責任を結び直す視座を提供する。

喪失や限界を直視する態度は、短期KPI偏重からの脱出条件でもある。リーダーの判断力において、長期的視野と覚悟が不可欠である理由もここにある。変化への適応においても、表層的な対応ではなく、本質的な価値観に根ざした判断が求められる。

日本的視座による社会再設計の方向性

これらの歴史的視座を統合すると、現代社会の再設計には以下の原理が浮かび上がる。第一に、虚構性の理解を前提としつつも、その中で意味と価値を創造する態度。第二に、集合的学習を促進しながらも、個人の内面性と主体性を保持すること。第三に、現代ビジネスにおいても、効率性と人間性のバランスを取ること。

AI時代の起業においても、これらの日本的な価値観と西洋的な合理性を統合することで、独自の競争優位を構築できる。デザイン思考と日本的感性の融合は、グローバル市場で差別化された価値を生み出す源泉となる。

最終的に、日本の歴史的視座は、持続可能性の危機に直面する現代文明に対して、別の道筋を示唆する。それは、効率と成長の一元的な追求ではなく、複雑性を受け入れながらも、簡潔で美しい形式に昇華させる文化的知恵である。この知恵は、オーケストレーション能力として、現代のクリエイティブワークにも応用可能である。