出席だけでは場に差分が生まれない
会議における存在価値は、そこに座っていることではなく、場の判断や認識に何らかの差分を加えることで立ち上がる。発言しない参加は、情報を受け取る意味では価値がある。しかし、周囲から見たときの役割は可視化されにくい。会議は共同で判断を作る場であり、発言しないまま終わると、自分が何を見て、何を懸念し、何に賛成しているのかが場に残らない。
この感覚は、自分を責める話ではない。むしろ、仕事における関与の仕方を「聞いて理解する」から「場に介入する」へ移すための合図である。組織での仕事の基本でいう「解・動・早」は、理解してもらい、動いてもらい、できるだけ早く進めるための原則である。会議での発言は、このうち「解」と「動」に直接関わる。自分が見えている論点を言葉にすることで、他の人の理解が変わり、次の行動も変わる。
発言は正解を出すことではなく、判断材料を増やすことである
会議で発言しようとすると、つい「正しいことを言わなければならない」と考えてしまう。だが実際には、すべての発言が結論である必要はない。問い、違和感、補足、懸念、別案、確認でも、場にとっては判断材料になる。示唆力は答えのない問題に対して価値ある方向性を示すように、答えのない会議では、完成された意見よりも、考える方向を少し変える一言のほうが価値を持つことがある。
特に抽象度の高い会議では、沈黙は中立ではなく、論点の欠落として作用する場合がある。抽象度の高い仕事では、参加者の増加が意思決定の質を低下させるで示されるように、上流の仕事では人数が増えるほど議論が薄まりやすい。そこで必要なのは、全員が均等に話すことではなく、それぞれが自分にしか見えていない差分を出すことだ。
「いる意味」は行動のあとに見える
「発言しないといる意味がない」という感覚は少し厳しいが、仕事上はかなり実感に近い。価値は内面にあるだけでは組織内で扱えない。場に出て、言葉になり、判断や行動に影響して初めて、他者からも認識される。価値とは、人が行動を変えるほどの”意味”や”効果”であるという考え方で見れば、会議での価値も「誰かの理解や判断が少し変わったか」で測られる。
発言することは、当事者になることでもある。「するべき」と「します」の間には当事者としての覚悟という決定的な断絶があるが示すように、外から眺めて助言することと、自分もその場の判断に参加することの間には差がある。会議で一言出すことは、その判断の場に自分の名前を置く行為である。
小さく発言する
発言は大きな主張でなくてよい。最初は「この前提で合っているか」「ここはまだ決めきれていないように見える」「今の話はAではなくBの論点に近いと思う」くらいで十分である。会議での存在価値は、名演説ではなく、場の認識を一段だけ進める小さな介入から立ち上がる。
次の会議では、少なくとも一度は場に差分を出す。正解を出すためではなく、自分がそこにいることを、場の判断に接続するためである。